Buddha's Face Sandwich

喰う寝る遊ぶ

菓子パン買って会いに行くね

・ひいじいちゃんが死んだ。大往生であった。2年前、会いに行った日に「腹が痛い」と言っていて、調べてみると肝機能の低下ということで翌日から入院を始めた。入退院を繰り返していたけど、頭は物凄くしっかりしていたので、いつ会いに行っても名乗るまでもなく「おーニャントラか」と迎えてくれていた。ひいばあちゃんはすっかりボケて名前と族柄を教えないとわかってもらえない(し、すぐ忘れる)だけに、すごいなあと思っていた。何度危篤になれど復活して、凄まじい生命力だなと思っていたけど、今回はとうとうダメだった。歳を考えると無理もない。今までが奇跡である。

・活発で庭いじりが好きで、菓子パンやドーナツや、スーパーに売ってる惣菜のローストレッグが好きだったじいちゃん。コーヒーに砂糖をドバドバ入れ、スプーンで混ぜては舐める、をあまりにも繰り返すので「もう溶けてるよ」とみんなで笑った。アイスを勧められ冷凍庫を見ると必ず大量のあずきバーが入っていた(私はその中から1、2個だけ残っているガリガリくんやチョコバーを選んだ)。寡黙な人だったけど、ばあちゃんと仲が良く、言い争いをしてはみんなを笑わせた。帰省したらまつりや(ローカル回転寿司)のお寿司を食べるのが通例で、みんなで何度もお寿司を食べた。最後の2年間、何度か会いに行ったが、活発で勤勉なじいちゃんに小さな病室と1人でどこにも行けない環境はあまりにも不釣り合いだと思った。会いにいくと嬉しそうで帰りにはいつまでも手を振ってくれた。じいちゃんはずっと家に帰るつもりで、庭のことなどについて息子(祖父)に伝言していた。じいちゃんは死ぬ前に一度でも大好きなローストレッグや菓子パンを食べられたんだろうか。全くボケずに不自由な生活の中で死を待つというのがどんなにつらく絶望的なことだったか、とじいちゃんの気持ちを思うと本当に切なく、お通夜の間ずっと泣いていた。今年は好きな人の訃報が多く、夏には父方の祖母も亡くなった。ただただ寂しい。老いとともに食べられる味も減る。父方のばあちゃんが作ってくれたわらびのおひたしや炊き込みご飯、ひいじいちゃんの漬物、ひいばあちゃんの飯寿司、昆布巻き。懐かしく、もう食べられない味がどんどん増えていくことが寂しい。

・死に対して心細さを感じる、ということに対して、大黒柱というのはそういうことなんだなと思ったりした。いつも明るい70を超える子どもたちですら動揺して、小さく見えた。親が死ぬというのはそういうことなんだと思う。

・色んな親戚と話して、いくつになっても(むしろ歳をとり社会と距離ができればできるほど)人は認められたいものなんだなと思い、褒められたがる老人たちを可愛らしいなと思ったりした。疲れたが、むげにせず頑張って会話して良かったと思う。

・身体は小さくても頼りになり大きな存在であったじいちゃんが、小さな骨壷に収まってしまったこと、もうこの世にいないことが本当に信じられない気持ちがある。病院に行けば会えるのではないか。じいちゃんの骨は本当に大きくしっかりしていて、若々しかった。家族みんなにとって大きい存在だったと思う。寂しいけど、また菓子パン持って会いに行こう。じいちゃん、今までありがとう。わたしがんばるね。