Buddha's Face Sandwich

喰う寝る遊ぶ

楽しかった日を忘れないこと

密を避けるべく、朝方~昼に掛けて友人らと遊んできた。どうしても愛おしい光景だったので書かせてほしい。

とにかくすべてが美しくて愛おしかった。友人に会うのは2か月ぶりくらい?だったけれど、全員全く変わってなくて安心した。私は音楽に詳しくないにも関わらず音楽サークルにいるので、彼らの話にほとんどついていけないことや笑って聞いているだけのことも多いんだけど、それでも全然苦痛じゃなかった。何かについて熱く語る人の楽しそうな姿ってなぜあんなに煌めいていて素敵なんだろうか。私もそっちに行きたい、と思うけれど、いつも思うばかりで追いつけない。「このライブのこの曲のこの演出が良い」くらいまで言える何かが欲しい。そんなに好きになれるものが欲しい。

今日はサカナクションについてめちゃくちゃ語っているのを聴いたので、帰ってからサカナクションのアルバムをリリース順に聴いた。たぶん彼らはイヤホンやヘッドホンで聴く機会が多いから、細かい音の造形にも敏感でいられるんだと思う。私は圧倒的にスピーカーで聴く派なので、目新しさは感じられなかった。でも、「この曲好きだったな」とか、「あの時言ってたのはこの曲か」くらいは感じられた。サカナクションって、好きなのに好きじゃない感じがある。好きだし曲も聴くけどなぜかライブには行かない。電気はある程度曲名を言われたら曲が思い出せるけど、サカナクションはいつまで経っても曲と曲名がリンクしない。なんでだろう。好きなのに。

外は終始春と初夏が入り混じったような匂いがしていた。ずいぶん久しぶりに花の芳香を感じた。草がそよぐ様が波のようだった。空はとても高く、青かった。湖にゆれる波紋が美しかった。風が強くて肌寒かった。五感の存在を数十年ぶりに思い出したような気持ちだった。友人は皆楽しそうで、私は大学生活を終えるまでにこの美しい情景をあと何回見られるんだろうと思った。もしかしたらこれが最後かもしれない、とも思った。来年には、ここにいる人全員を置いてこの土地から離れるんだな、と思うとひどく悲しかった。せめてみんなばらばらになるなら「一人でいるのは自分だけじゃない」と思えるけれど、私以外はみんなこれからも(少なくとも2年くらいは)共に過ごすだろう。そして私がいなくても変わらずに好きな音楽について語り続けるだろう。そう思うと、嬉しくもあり、やるせなくもあった。

カーステレオから流れるナイロンの糸を聴きながら、就職する土地で見た海のきらめきを思った。あの土地は海も空も草も木も美しかった。でも友人も同じくらい大事だ。みんなといつまでも遊んでいたい。もっとしたいことがたくさんあった。

これ以上大好きだと手放しに言える友人はこの先決して生まれないんじゃないかと思う。仕事を始めても、この関係を保てるように努力しようと思った。気持ちがあればいつまでも関係が続けられることはわかっている。悲しいのは、いつか今の友人から精神的に離れていく日が来ることがなんとなくわかっているからだ。その日がいつか来るとしても、今のこの悲しさや今日が楽しかったこと、今日以外にもみんなでたくさん楽しいことをしたのを忘れないようにしようと思った。