Buddha's Face Sandwich

喰う寝る遊ぶ

頑張って生きようと思う

ひいばあちゃんが死んだ。年相応に長らくボケてて、死期は近いだろうなあと思い始めてから3年くらいは経ってたような気がするけど。3ヶ月前にひいじいちゃんが亡くなって、まさかこんな立て続けに亡くなるとは。仲良し夫婦だったから、じいちゃんが呼んだんだろう。じいちゃんの時は度々ロウソクの火が不自然に揺れてて、あ〜来てるんだなあと思ってたけど、今回は全くなくて、もうばあちゃんはじいちゃんのところに行ったんだな〜って。スピってるわけじゃないんだけど、なんとなくそう思った。じいちゃんは最後までばあちゃんをリードしたんだろうね。かっこいいなあと思った。

「生まれたのはたまたま、生きる意味とか意義なんて別にない」論者だったけど、こんなに良い伴侶に出会えてひ孫もたくさんいて、大きな病気もせずほとんど老衰で天寿を全うして……いい人生ってこういうことを言うんだろうなあと思う。ばあちゃんは別に全世界が変わるようなすごいことはしてないけど、子どもを育ててその子どもがまた子どもを産んで一族が繁栄して、十分大仕事だなあって。だからなんていうか……生まれた時には生きる意味なんて付与されてないかもしれないけど、最終的には生きた意味って残るんだなあって。まあ息子を溺愛しすぎて娘たちとは折り合いが悪く、そこでのトラブルはあっただろうけど、それを差し引いても恵まれた最期じゃないだろうか。

魚の切り方が豪快すぎる紅鮭の飯寿司、昆布が分厚すぎる昆布巻き(こっそり昆布巻き用の乾燥昆布をちぎってつまみ食いした)、みんなでお寿司食べた時間(ばあちゃんはホタテと数の子が好きだった)、ばあちゃんの財布を失くして泣いたこと(あの時はごめん)、歌好きでなんでも歌にするばあちゃん、私を出迎える声、「大人になったなあ、ばあちゃんわかんなかった〜」。今でもびっくりするくらい全部が鮮明でさみしい。あの家に行ってももう2人はいなくて、賑やかな人たちだっただけに次行った時の不在が怖い。超長寿の生命力の塊みたいな人たちでも、人である以上は死んじゃうんだねえ。本当に大きな存在だったなあ。自分にとっては、ひいじいちゃんひいばあちゃんが本当のじいちゃんばあちゃんみたいに感じてたところがあって。(じいちゃんばあちゃんは私が子供の頃はまだ全然若くて、あんまりじいちゃんばあちゃんって感じがしてなかった)。こんなにも喪失感が大きいものだとは。さみしいよばあちゃん。死んだら無だって思ってたけど、そんな風に思いたくない。信じたくないな。じいちゃんとばあちゃんが天国でまた仲良く喧嘩してると信じたいし、また会えるって信じたい。私が行くまで随分かかるだろうけど、また会いたいなあ。その頃の私は、「大人になったなあ」というには老けすぎてるかもしれないけど……。

打ちのめされてるし、時間はかかるだろうけど、色んなこと、少しずつ受け入れていくしかないよね。働けるのはありがたいこと、一生懸命働きなさいってよく言われていたのを思い出す。頑張って生きようと思うよ。ばあちゃん今までありがとう。