20160916:いきている

こちら午前10時43分、現代文の授業です。

今日は評論文の演習をしたのだけれど、先生が今日読んだ文のことを"歯ごたえのある文章"と形容していて、(わ、すてき)と思いました。解く側からすれば、歯ごたえのある=読み応えのある=むつかしい、ということになるから、あまり好ましいことではないのだけれど、"歯ごたえのある"という言葉を聴いた瞬間に、瑞々しい、白とうすみどりのセロリが頭に浮かんで、そこらじゅうに爽やかさが駆け巡るような思いでした。セロリのにおいを思い出した。

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隣の席の男の子が、ワークを忘れたようでふて寝していたのだけれど、全然気にしたことない人だったのに、窓辺で突っ伏して眠っている姿、風に揺れる髪、なんかを見ていると、なんだかずうっと見ていたいような、目が離せないような感覚に陥りました。

私はここ最近内に内に沈んでゆくばかりでちっとも周りを見ていなかったけれど、静かな教室で眠る男の子やクラスメイトが繰り返す何の意味もない行動(ゆるゆるの靴の後ろに指をかけてきちんと履いたりかかとに引っ掛けたり、など)を見ていると、彼らがそれをしていたことを知っているのはこの世界でわたしだけのような気がしてくるし、わたしが見ているこの景色と全く同じ世界を見ている人間は誰一人としていないということを思うと、それだけで生きている意味があるように思います。

以上、今日の2時間目から3時間目にかけて書いた文章でした。

わたしは窓際から二番目の席に座っているのだけれど、今日の現代文の時間は本当に、新海誠の世界に生きているような、静かで透明な時間だったように思います、なんだか詩的な表現になってしまうけれど、でも、本当なのです

あまり普段見つめない他人の横顔、自分が見られていることや自分から見た自分の姿を意識していない時の他人の姿、それはとても自然で、美しくて、写真じゃイマイチな人でもとてもきれいに目に映るんです、「なんだ、みんな綺麗なんじゃないか」と思ってしまった、し、『きれいな人の輪郭はなぞりたくなる』と言っていた友だちのことが理解できたような気がしました

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そんな光景を見ているといてもたってもいられなくて、思ったことをメモしていたのだけれど、昔のメモに『イオンで流れている音楽は誰が作っているの?』という問いかけがあって、まるで昔の自分から今のわたしにメッセージが送られてきたような、タイムカプセルを開けたような、そんな気分になりました

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今日も月はきれいだったし、夜に食べた焼肉はおいしかったし、焼いた芋にピュアセレクトマヨネーズをかけてハフハフすること(人呼んで菅野美穂ごっこ)もできたし、なんだか世界は思っていたよりも美しいっぽいぞ~~~~!!!!と感じた一日でした。

教室のあの水を打ったような静けさ、他のクラスから漏れ聞こえる先生の授業、校庭から聞こえる楽しげな声、ホイッスルの音、心地よい風、揺れる黒髪、が同居した空間には、なんだかもうこれからずっといられないような、見られないような、気がしました。今しか体感できない"今"を生きているということに今気づいてしまった。あと3か月で学校終わり、うれしい~~、って、思っていたのに

他人がきちんと生命を持っているということ、たとえば人がごはんを食べているとき、うとうとしているとき、鼻をかんでいるとき、わたしと同じように彼らは生きているんだということをなんだか深く、実感するような気がする、今日はそれを実感したから、なんだか目が離せないような気持ちになったのだと思います、実際目を離したくはなかったのだけれど、見ている最中に起き出してしまってはなんだか気まずいので、そう長くは見られなかったのでした。残念。

いつか恋人が出来たら、嫌がられても構わないから、じいっとじいっと、ひたすらに見つめたい。その人の表情が変わる瞬間を見つめたい。

なんだか今日は全体的にポエミーになってしまった、でも、本当に、みんな生きているのだということを実感した一日でした。おわり。